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- Convenors:
-
Hiromi Motohashi
(Aichi Prefectural University)
Hiromi Hyodo (Gakushuin University)
Makoto Takagi (Sagami Women's University)
Daisuke Higuchi (Kobe University)
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- Stream:
- Pre-modern Literature
- Location:
- Torre B, Piso 1, Auditório 1
- Sessions:
- Friday 1 September, -
Time zone: Europe/Lisbon
Short Abstract:
War literature sometimes makes the dead return to this world as spectres.There are enormously many dead people who are forgotten without representation. We need to ret hink ways of representing death and memory in war literature and explore the possibility of telling the stories of the dead.
Long Abstract:
When considering the problem of historical perception in modern Japan, it is necessary to think about the influence of tradition in the representation of the dead in historical war literature since the pre-modern era. War literature makes the dead return to this world as "ghosts." On the other hand, there are an enormous number of dead who are forgotten without representation.
The delineation of both representation and oblivion usually depends on the context of that era, which tends to be forgotten with later generations. To talk lightly of the dead, is to talk lightly of their memory, history, and the violence that accompanied them. Nevertheless, not talking at all about the dead results in their oblivion. The gap between the dead who are considered "to be" although they "are not", and the dead who are considered "not to be" although they "are", creates a deviation of historical perception. Taking this into account, we reconsidered ways to represent the dead, their memories, and history in war scripts. We must explore the possibility of talking about the dead without mention of violence. This panel takes the concept of 'spirits' as representations of the dead, which differs from 'ghosts,'.
"Heike Monogatari", "Soga Monogatari", and "Gikeiki" do not let the dead return to this world as ghosts. By contrast, "Taiheiki", "Soga Monogatari", or Noh plays as an art performance bring the dead back to the real world as a person with a physical body. However, this does not mean that the former is not talking about the dead. Also, this does not mean that the latter is quoting the words of the dead properly. What is important here is the text's attitude on how to talk about the dead. It is the concept of "hantologie" that focuses not only on the content of the story, but also on the manner in which performing narratives are carried out. Our panel explores the possibility of talking about things that cannot be talked about in the war history literature, viewed from the perspective of "hantologie".
Accepted papers:
Session 1 Friday 1 September, 2017, -Paper short abstract:
日本の戦争叙述は、感情移入の可能な人物とそれが不可能な他者を分割して扱うことを通して、テクストの持つ偏った視点をあたかも中立的なものとして読者に印象づける機能を持っている。本報告では前近代及び近現代の戦争叙述・歴史叙述を具体的に検討することを通して、「境界線のポリティクス」の諸相を考察し、あわせてその負の影響を相対化しうる歴史叙述のスタイルについて検討する。
Paper long abstract:
日本の戦争叙述(文学)の死者の語りにおいては、感情移入の可能な人物の死を記憶し、記念することと、感情移入の不可能な他者の死を記述しないことで忘却することとがコインの裏表の関係になっている。両者を分割する境界線はテクスト成立時の国家的な枠組みや社会文化のあり方に依存しており、たとえば当該人物が和歌や音楽等の古典文化を共有する人物であるかどうかが指標になることも多い。しかし、多くの読者もまたその文化的規範を内面化しているが故に、テクストの背景をなす偏った視点をあたかもニュートラルなものとして受け取ってしまう傾向が生じることが多い。
本報告前半では六国史に始まり、『平家物語』『太平記』等の戦争文学のカノンに至る諸テクストにおける上記境界線の引かれ方について検討し、それが後世の「日本」イメージに与えた影響について考察する。
また、近代日本の戦争叙述や歴史叙述もまた、境界線の生み出す影響から自由ではなく、そのことが隣接諸国との歴史認識をめぐる抗争や国民感情の対立を生み出していると考えられる。本報告後半では国内で多くの愛読者を持つ歴史小説テクストとその享受史を検討することを通して、前近代の状況との差異と共通性について考察する。そしてそれを踏まえて「境界線のポリティクス」の影響を相対化しうるような、複数的視点を持つ叙述スタイルの可能性について検討したい。
Paper short abstract:
This paper will discuss the aspect that of Nue, such as only serving episode is forgeries crushing the norm that the requiem system of Noh. Here Nue is going to generate transformed into a specter from ghost. Next, we examined how then, specter, or to occur in the KATARI of the system, was studied.
Paper long abstract:
本発表では謡曲《鵺》を分析の中心に据える。能という藝能のうち、死者が舞台の上に回帰してくる演目は、死者を〈怨霊〉として利用し、鎮魂という儀式を舞台上で行う。能とは怨霊化と鎮魂というシステムそのものである。たとえば、『平家物語』においては《恨みはない》と言って死んでいった実盛を、恨みを持った〈怨霊〉として舞台に上げる謡曲《実盛》は、怨霊化と鎮魂というシステムの反覆の一例である(高木[2000]参照)。しかし、死者を表象することが、〈亡霊〉を呼びよせてしまい、鎮魂というシステム=規範が破砕されることがある。
本発表でもまずは謡曲《鵺》のなかに、〈亡霊〉とのあいだに築きあげられる親密圏生成の可能性を探っていこう。つまり〈怨霊〉化システムの破砕を試みようということだ。またその上で、〈亡霊〉という視座がシステム=規範を脱領域化していくことで―これを亡霊論的転回と呼ぼう、死者を語るシステムをも見直す可能性について考察していく。
Paper short abstract:
兵藤裕己は、軍記物語研究において亡霊に着目することの重要性と今後の研究における可能性を述べた上で、コメンテーターとしてパネル登壇者の発表をまとめ、問題点を提示する。
Paper long abstract:
兵藤裕己は、軍記物語研究において亡霊に着目することの重要性と今後の研究における可能性を述べた上で、コメンテーターとしてパネル登壇者の発表をまとめ、問題点を提示する。
Paper short abstract:
後醍醐天皇は、信仰を利用しようとした人物である。彼は仏教だけでなく、天皇の役割と関わるさまざまなモノや思考について独自の考えを持っていた。特に『太平記』が語る後醍醐天皇は、そうした信仰に関する意識が極めて強く窺える。一方で、後醍醐天皇には伊勢神宮に仕える皇族女性を指す「斎宮」制度の復興を目指した記録があり、自身の娘である懽子内親王と祥子内親王を卜定している。特に祥子内親王は百首歌を奉ったとされるが、『太平記』はそれらを語らない。最後の斎宮である後醍醐天皇の二人の娘と『太平記』の語りを検討し、戦記文学における女性像について述べる。
Paper long abstract:
『太平記』は南北朝の動乱を描く。多くの登場人物がいるが、中でも後醍醐天皇をめぐる語りは、天皇という存在を改めて見つめ直す重要な言説にあふれている。それは、後醍醐天皇自身が自分の置かれた「天皇」という立場について思考し、また行動に移した存在として語られるからであった。後醍醐天皇が深く関わったのは、密教や三種の神器に代表される天皇を権威づけるモノたちだが、本発表で注目するのは、後醍醐天皇が復興しようとした斎宮制度についてである。斎宮制度は、古代から朝廷と伊勢神宮をつなぐ役職として皇族女性が派遣されたものだが、鎌倉時代には断絶が見られるようになり、特に持明院統の天皇は斎宮を置かないことが増えていた。後醍醐天皇の前には20年以上の断絶があり、卜定しても伊勢への下向に至らない斎宮も多かった。そうした中で、後醍醐天皇は自身の即位から間を置かずに斎宮を卜定しており、1330年に懽子内親王、1333年に祥子内親王、二度とも自分の娘を伊勢神宮の祭祀者として任命している。ともに下向することはなかったが、後醍醐天皇が斎宮というシステムを利用しようとしていたことは明白である。しかし、『太平記』はこうした後醍醐天皇の意識をほとんど語らない。特に祥子内親王は『新葉和歌集』に夢つげを受けて大神宮へ百首歌を奉った中の一首が載っており、父天皇の意向を受けた娘斎宮という、天武天皇と大伯皇女に代表される斎宮制度の初期の姿勢を体現しているにも関わらず、彼女をめぐる語りはほとんどないのである。こうした『太平記』の語りを手がかりに、王朝文学における斎宮をめぐる論を念頭において、戦記文学が語る、あるいは語らない女性たちのあり方について検討する。